7月29日

一昨日、日記に「東海道線に乗って真鶴へ行く」とそっけなく連休のことを書いたけど、この文章はもっと続くはずだった、というか、続きを書いたんだけど、モリエールの例の言葉を思い出して、面倒くさくなって消した。それは、連休最終日に真鶴から戻って、昼には自宅に到着したので「まだ時間はいっぱいある。遊ぶぞ!」と意気込んだんだけど「その前に一眠り…」と布団に横たわったら、そのまま夜中まで爆睡してしまい、その間に濃厚な夢を見たので、それをダラダラと書きつづったものだった。
その夢には、中学から高校までの知り合いがかわるがわる登場し、26歳を過ぎてもいまだにそんな夢ばかり見ていて、それは完全なモラトリアム人間だからなのか、それとも誰にとっても思春期の記憶は深く刻まれているものだからなのか。ひとに聞いてみたことがないからわからない。よくある夢のパターンは、舞台は決まって小学校で、登場人物は中学・高校の知り合いというもので、自分でも驚くほど小学校の構造が身体の中に深く染み込んでいるらしい。クリキン、アサノラ、ササコ、年下の不良…。登場した人物は実際には共通の知り合いではないし、知り合った時期も全然違うのに、夢の中では親しいグループとして登場してきて、現実に共通していることといったら、もうあれこれ7年以上も会っていないことぐらい。
そんな彼らが登場した夢を、彼らのあだ名をそのまま使用して覚えているかぎりこと細かにダラダラと書きつづって、ふと思ったことは、ぼくが彼らの夢を断続的ながらも見つづけるように、彼らもときどきぼくのことを思い出すかもしれなくて、そのとき、もし死ぬほど暇であれば、もしパソコンを開いていれば、ぼくの名前を検索してこの日記を見つけるかもしれない。そしたらそこには自分のあだ名がある。
何を言いたいかというと、単にいままで同じ時間を過ごした、中学のときに同じ趣味を共有した大切な友人から、つい一年前に短期バイトで一緒に棚卸しをした大学生まで、とにかく大勢の人々を覚えいて、そのことを特別ひとに喋ったり日記に書いたりはしないかもしれないけど、とにかく日常でぼんやりと思い出すわけであって、それは目の前にいるひととのコミュニケーションと同じくらい大切なことだと思う。話は少し飛躍するけど、たぶん、死ぬ瞬間に、もしこの世に別れを告げる余裕があれば、できるだけ全力で今まで出会った全ての人々を思い出すことに力・時間を費やすだろう。たとえ無理だとしても。そうすれば何となく救われるような気がしている。イヤな思い出のあるひとは思い出したくないかもしれないけど、たぶん、関係なく思い出す。そして、そんなスタンスを、別に誰にというわけではないけど、いちおう知っておいてもらえば、さらに救われるような気がするから、こうやって日記に書いている。