煙に巻いて死んでいった

昨日は映画ばかりを観た日曜日だったけど、その前の日曜日は横浜にある神奈川近代文学館『生誕80年 澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン』へ。本屋の河出文庫の棚の一角を占める、怪奇的で魅惑的なオーラを放つ澁澤龍彦の存在はだいぶ前から気になってはいたんだけど、知識も度胸もない自分は恐れをなして今まで見て見ぬふりをしてきた。ホラーでもなくゴスでもない、決して現代の文化に回収されることのない唯一無二の異形さに戸惑っていたんだと思う。だけど、最近、コンテンポラリーダンスを観る機会があって土方巽に興味を覚えて、その延長線上で澁澤龍彦に出会ってからというもの、もう見て見ぬふりできないな、っていうくらい気になり出したので、ギリギリ最終日に観に行ってみた。

それから『快楽主義の哲学』と『高丘親王航海記』を読んで、先週はシブサワ・ウィークとなったわけだけど、おかげでかなり刺激的な日々を過ごせた。『高丘親王航海記』に関していえば、今まで読んだどんな小説とも異なる特別な小説だった。いや、これは、ホント、やばい。澁澤龍彦が癌を告知されてから書きはじめた遺作になるわけだけど、『快楽主義の哲学』で快楽主義を「死の脅威や時間の脅威から人間を解放することを追求している」と説明していたけど、それをまさに実践したかのような小説だと思った。おそらくこれから何回も読み直すことになると思う。それと冒険奇譚なので単純に青春時代に夢中になったRPGゲームを思い出してワクワクする、というのもある。

あと興味深かったのが、回顧展の目玉として土方巽の通夜の映像がビデオで流れていて、澁澤龍彦の嗄れ声が聞こえてよかったんだけど、そのときの弔文で「土方は韜晦(とうかい)の達人だった」みたいなことを言っていたこと。その「韜晦」については『快楽主義の哲学』でも紹介されていて、「韜晦」というのは英語では「ミスティフィカシヨン」といって「煙幕を張る」という意味らしい。どういう文脈で紹介されていたかというと、他人の目ばかり気にするひとに対して、誤解を恐れるのではなく、むしろすすんで他人に誤解されまくることで自分の周りに煙幕を張りめぐらし、真実の姿を隠してしまった方が気がきいているではありませんか、という感じ。ここでは具体的にはジャリやダリを例に挙げている*1。なるほど、本当の自分にこだわっていても虚しくなるだけだしなー。
で、土方の弔文に戻ると、澁澤曰く「土方は生涯煙幕を張りつづけた挙げ句、本当に煙になって死んでいった」(曖昧)とのこと。そんな澁澤本人も十分ミスティフィカシヨンなのは言うまでもなくて、死後45年経っても本屋の一角では未だに怪奇的で魅惑的な煙がもうもうと立ちこめている。そういうのすごいカッコいいなーと思う。

*1:ちなみにぼくの中でのミスティフィカシヨン人物は甲本ヒロトさんです。