6月24日〜26日

最近、なかなか更新できていなくて、これからも更新が途切れがちになりそうなのは、突然ですが、芝居に出演することになったからです。なので腰を落ち着けてブログを書く時間がとれなさそうなので、それに本も読めてないし映画も観れていないので、これからはちまちまと稽古メモのようなものを書いていこうかと考えています。ちなみに出演する芝居はこんな感じです。


こまばアゴラ劇場 夏のサミット2008参加
田上パル第5回公演『そうやって云々頷いていろ』
作・演出:田上豊
2008年8月8日(金)〜12日(火)会場:こまばアゴラ劇場 
詳細はhttp://tanouepal.com

■6月24日 24歳が終わって

25歳になる。めざましテレビの運勢占いでかに座は5位くらいだったんだけど、ああいうのって、その星座の期間はやっぱり比較的上位になるように配慮してる、とかあるんだろうか。誕生日に運勢が最下位だったらそういうの信用していない自分でもちょっと怒ると思う。ちなみにこの日から稽古メモのようなものをはじめているけど、この日は稽古がはじまってすでに9日目で、といっても稽古のことを書く気があんまりなかったりする。

■6月25日 「師匠」と呼ばれるもの


椹木野衣著『なんにもないところから芸術がはじまる』読了。この本を読むきっかけは、以前ブログに書いたトークショーにゲストで参加していた飴屋法水さんの、暗箱に24日間閉じこもり続けたという、あの衝撃的な個展に対する興味からだったんだけど、この本に収められた作家・作品論を覆うテーマは今の自分にとってとてもタイムリーなものだったので、それに現代アートの見方や問題意識がなんとなくわかったので、大きな収穫だった。最後の二章は大竹伸朗論に割かれていて、大竹伸朗の作品はある種の「わかりやすさ」を持っていると論じ、それは美術史的な理解ではなく直感的に感じ得るもの、つまり「ゴミ」と烙印を押されてしまうものだから、とある。

われわれがなにをして「芸術」とし、なにをして「芸術でない」とするかという、きわめてわかりにくく論議の困難な境界を抹消してくれるがゆえに「わかりやすい」のであって、それが抹消されてしまえば、世界のすべては、ときに芸術などと肩肘張らずとも見るに値するものとして等価に立ち現れてくる。そう、その時もはやそれは「ゴミ」ではないのだ。

大竹伸朗が造船所の作品パーツ置き場で手を加えなくとも既に出来上がっているゴミを発見したときに「師匠!」と叫びたくなる、というエピソードが紹介されているけど、演劇の話でいえば、駅前で寝転がるホームレスに「師匠!」と叫びたくなることがある(そのまんまだけど…)。ホームレスを集めてギリシャ悲劇を上演したいとちょっと前に山の手事情社の安田さんがおっしゃっていたけど、演出家の場合は別にそれでいいかもしれないけど、俳優の場合は自分の身体を使わなければならないわけだし、それにもし自分がホームレスであったとしても「どう演じるか」がとても重要になるわけで、やっぱりそこらへんなんだと思う。今までなんとなくですませていた、演じる際の意識と身体のバランスについてちょっと考えていきたい。

■6月26日 ギブミーチョコレート

中目黒駅から稽古場まで少し歩くんだけど、途中、どうしてもチョコレートが食べたくなったので、セブンイレブンで板チョコを買う。最近は一口サイズにカットされたチョコレートが主流になっていて板チョコはけっこう隅に置かれているけど、なんとなく板チョコを買ってしまう。セブンイレブンを出ると人目を気にしながらチョコレートの包みを開けて歩き食いをしようとしたら、不覚にもその瞬間をゴツい男に目撃されて、あー恥ずかしと思ったんだけど、そのひとはどっかで見たことがあるひとで、そのときは名前が出てこなかったんだけど、あれは山本“KID”徳郁だった。山本“KID”徳郁はぼくが板チョコを歩き食いしているのを見て、当然のことながら、なんとも思っていないようだった。