つげ義春の歩き方

そういえば、先週の金曜日の通勤時に人生で初めて財布をなくした。気づいたのは改札を出ようとしたときで焦ったのはもちろんのこと、それとは関係なく腹が痛くもあったので輪をかけて焦りまくった。どこで財布を落としたのか見当もつかなかないので、とりあえずトイレに入ったわけだけど個室が満室だったので扉の前で待っていたら、それどころじゃないじゃん、と軽いパニック状態に陥って、財布、財布、とあてもなく駅構内をさまよった。かなり弱ってた、情けないくらい。泣き顔を通り越してマヒ顔で駅員さんに「すいません、財布を落としたんですけど…」と尋ねたら「なに色ですか?」と予想外の具体的な質問が返ってきたので「もしや…」と思ったら、なんと遺失物として届いてた。いや、もう、ホントに便意もどっか飛んでいった。届けてくれたひとにマジ感謝で、これからさき財布を拾ったとしても必ず交番かどっかに届けよう、って一人誓った。

そんな先週の通勤時はつげ義春著『新版 貧困旅行記』を読んでいた。「旅行」といえば「華やかな観光旅行」ではなく絶対に「侘しい貧乏旅行」であるぼくとしては、ぜひとも読んでおきたかった一冊。今まで侘しい一人旅は4回ほどしたことがあって、どれも行く当てもない青春18きっぷの旅だった。行く当てがないと電車に乗っている時間こそが幸福な時間となって、終点に着いてしまうと、どの路線に乗り換えるか、つまりは目的地の決定を迫られるので困ってしまう、というか面倒くさくなるんだけど、まぁ、よほどのことがないかぎり、最初に目についた路線に乗る、という安直な選択をとることにしていた。そうやって四国の高松や長野の木曽路なんかに行った。
いずれも金欠だったので何回か野宿を試みたんだけど、度胸が足りなくてマン喫とかファミレスで夜を明かすことになってしまい、この点において自分はまだまだ旅の極致に至っていないな、と未練が残っている。行く当てもなく泊まる当てもない一夜を過ごすことが、旅の極致にいたる通過儀礼だと思い込んでいて、その絶望的な夜を味わうことによってその旅はより自由度が増すんじゃないだろうか。と、そんなことを思い出したのは『新版 貧困旅行記』の以下の箇所を読んだから。

世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から逃れるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには“自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。
シュテルナーの「唯一者とその所有」は読んだことがないので孫引きだが、
「完全な自己否定は自由以外の何物でもない」
ということばに私は納得させられる。

つげ義春はひなびたボロ宿に好んで泊まったわけだが、それは潜在的な自己否定の表れであって、つまり、そうすることで人間的な「現実原則」から脱して動物的な「快楽原則」に身を投じ、自由を獲得することができる。いきなり「現実原則」「快楽原則」なんてテクニカル・タームを使ったのは、いま読んでいる澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』に影響されて。この本はかなり刺激的で、読んだはしからアナーキストになってしまう、という起爆剤の効用がある素晴らしい本で、またそのうち紹介すると思う。と話は脱線したけど、ぼくにとって旅の醍醐味はやっぱり、とりあえず絶望することになる。