だったら黙っているか、にもかかわらず喋るか

一昨日くらいに、突然、Webサイト制作に目覚め、BiND for WebLiFEの体験版をダウンロードし、連日夜更かししながら作業に励んで、やっと今日そこそこのものが完成したんだけど、最後の最後でなぜかサーバーにアップロードすることができず、いろいろと試行錯誤を繰り返したんだけどやっぱりエラーばかりで、作った意味ないじゃんか! ということで、思い切りベッドに身を投げた。仕事終わりの大切な時間を返してくれ。とも思うけれど、久々に時間を忘れて夢中になれたので、それは、まあ、それで良かったんだけど、でも、やっぱり、せっかくなので、神様、エラーの原因を解明してください。

まだ全部は読み終わっていないんだけど、大谷能生・門松宏明著『大谷能生フランス革命』を読んでいて、いまは岸野雄一さんの第4回目を読み終わったところ。ちなみに、この本は2005年7月から2006年7月にかけて渋谷で定期的に行われた、大谷能生さんが毎回ゲストアーティストを呼んで語り合うというイベントのドキュメントだ(画像だとわからないと思うけどB5サイズとちょっと大きめだ)。
第3回目はチェルフィッチュの岡田さんがゲストだったんだけど、自分でチェルフィッチュの特徴的なダラダラ台詞を「頭の悪い人の喋り方」と言っていて、それに少なからずともショックを受ける。岡田さんの戯曲を初めて読んだときの感動は「おれもこんなふうに喋ってる!」ということで、つまりぼくは頭が悪いということなわけで…。別に否定はしないけど…。ただ本文でも触れていることなんだけど(なので決して言い訳のつもりではないんだけど)、現実の出来事を言語で全て言い表すことなんてもちろん不可能なわけであって、だからその不可能さと対峙し苦戦することは普通といえば普通といえるし、まぁ、バカ正直といえばバカ正直ともいえる。だけど表現の話でいえば、その苦戦しているさまを見ていた方が現実の複雑さがより浮き彫りになるのは明らかだ。と、こういう言語と現実の関係は保坂和志もよく書いていることで、小説とは言語を使って言語では言い表せない現実を描くものであって、やっぱり芸術の分野には破綻のない論理的な言語はあんまり求められないんじゃないかと思う。
つまり、「ノイズを切り捨てるか」「ノイズに意味を置くか」の違いなるわけだけど、そもそも芸術っていうのは社会生活とは別の視線で世界を見つめることで、そこではすべてがノイズであり、すべてがノイズではなくなる。そんな気が遠くなるような複雑な世界において言語ができることは、言語と世界のズレに自覚的になりつつそれでも世界にしがみつくか、もしくはあえて語らないかだと思う。
で、よく思うのがそういう複雑な現実を目の当たりにしたとき、だったら黙っているか、にもかかわらず喋るか、ということで、といってもどちらかを決めて一貫して生きることなんてどだい無理な話で、そのつど黙ったり喋ったり判断している。まぁ、喋らない方がクールでカッコイイというのはつねにあったりする。だけどそれにしても、2人でいて沈黙が流れて、長引いたときの、あの自分の顔がじょじょにお面になるようなあの感覚はいつまでたっても好きになれない。だから喋ってしまう、ということがよくある。