Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)

先週末は野毛山動物園で『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』(誤意訳・演出/中野成樹) を観る。動物園で『動物園物語』を上演するという、例のあれ。3時半からの動物園ツアーにはバイトの都合で参加できず、4時半からの公演のみの参加。会場に向かうがてら爬虫類のみの観賞。
動物園内の広場に辿りつくと、その一角に舞台らしき四畳半ほどのスペースと、それをコの字に囲んだ客席が見える。だけど観客はそのまま広場を囲むように立たされ、突然、動物の鳴き声がやかましくなり不穏な空気が立ちこめたところで、演出家の合図によって「見知らぬひとが見知らぬひとに話しかける」というシーンが始まる。
少し離れた階段に腰をかけているのはおそらくピーターで、そこに近寄っていくのはおそらくジェリーなのだろうけど、話し声はまったく聞こえなくて、観たかぎりでは普通の日本人と危ない日本人がいるだけ。そして、危ないひと(ジェリー)に危機感を覚えた普通のひと(ピーター)は動物園の奥へとそそくさと逃げてしまって、こちらとしては「それじゃあ物語が始まらないじゃんか」と驚いてしまう、というか笑ってしまう(しかもこの時ちょうど上空を飛行船が横切った)。ひとり残されたジェリーは突っ立っている観客の群に近づいてきて、なぜだかそこに設置されているマイクを手に取り「逃げられちゃいました」みたいなことを言って、「あのひとに聞いてもらいたい話があったんですよ」と、原作では中盤の見せ場である「犬の話」をしょっぱなから観客に向けて喋りだす…。
その話の冗長さ(ダメダメさ)を聞くかぎりでは、台詞を固めることはせずに原作から読み取ったイメージを役者自身の言葉でそのつど紡ぎ出しているようで、ここでまず誤意訳の革新さに興奮しまくる。喋り終わったジェリーは再びピーターを発見したらしく「また話しかけにいく」と舞台を去り、ピーターを連れて舞台に戻ってくると、やっと芝居らしい芝居が始まる。
前もって原作を読んでいたんだけど、ここまで「メタ演劇」であったことには気づかなかった。『動物園物語』が「現代社会のコミュニケーションの欠落」を描いたのは周知の事実だし、ジェリーがピーターに求める濃密な時間こそが「演劇に求められる時間」であることなのも何となくわかっていたつもりだった。だけど理解はしつつも腑に落ちてはいなくて、だからこんなにもこの公演が刺激的だったんだと思う。それはたぶん誤意訳が言葉の問題を超えて成功をしていたからで、役者のキャスティングにしても現代日本演劇を描いているようにすら見えてくる。
ジェリーの犬の話のダメダメさや、動物のけたたましい鳴き声や、何気なく通り過ぎる孔雀や飼育員など、意図なのか偶然なのかわからない演出を見ると、完璧さを求めるよりもむしろ完璧さから逃れることによって絶大な豊かさを獲得しているのかように見える。そこがこの芝居をすごく好きになってしまった理由なのかもしれない。終演後も野毛の町を歩いて、餃子を食べて、ずっと芝居が続いているようで、この日はとてもいい日になった。