ヨク隠レシ者ハヨク生キシナリ

図書館で借りた種村季弘著「雨の日はソファで散歩」を読む。中でも面白かったのは「幻の同居人」という江戸川乱歩について書かれたエッセイで、なぜそのエッセイに反応したかといえば、江戸川乱歩と引きこもりを照らし合わせる箇所に、ちょっと他人事ではなくなってしまったからで、さらに種村先生が引きこもりに対して「共感しないわけにはいかない」と述べている箇所に、ちょっと他人事ながら嬉しくなってしまったからだ。種村先生は乱歩を「レンズ嗜好症」と称し、小説についてこう論じる。

そもそも乱歩の小説はレンズによる反射や屈折という光学的原理から構成されている。レンズの曲率によって作中人物はいかようにも伸びたり縮んだり、歪んだりふくらんだりするのである。合わせ鏡を使ったように双生児が登場し、同一人物が同一時間に異なる場所に出現したりする。すべてはレンズがつくりあげた幻影であり、だから乱歩の部屋には作者の脳髄というレンズを通過してきた幻の同居人がうようよ巣くい、次々に増えていった。

この幻の同居人こそ「屋根裏の散歩者」であったり「芋虫」であったりするわけだけど、特徴としては「隠れ蓑願望」が挙げられている。E.T.A.ホフマンマゾッホの小説では「隠れ蓑願望」者は最終的に隠れ場から引きずり出され性的闘争の現場に立たされるのだけど、乱歩はそうはいかない。

乱歩は永遠の少年、アンチ・エロティカーである。性的葛藤に巻き込まれて、エディプスのように父親的人間と張り合う大人なんぞになりたくない。できれば子供のままでいたい。あわよくば生まれないままでいたい。ずっと母胎のなかの胎児でいたい。それでもいやいやこの世に出されてしまったからには、机の下や戸棚にもぐり込んでいたい。ましてや自分の部屋や家から一歩も外へ出たくない。

まさに引きこもり。裏を返せば引きこもりは怪奇小説の登場人物ということだけど、その全面受愛の快楽は乱歩も種村先生も認めるものなので、「どうしてそうなっちゃったの!?」と心配したり嘆かないでもらいたい(別に心配されたり嘆かれたりしていないけど)。ただやはり乱歩も種村先生も全うな社会人であるのは、なにも現実と戦って全面受愛の快楽を得るまでもなく、年をとれば目鼻もない手足もない肉塊となり、介護のもと全面受愛の快楽を満喫できることに気づいていたから。ということは、とりあえず若いうちは幻の同居人を心の中に閉じ込めて、年寄りの幻に付き合ってやるか、しょうがなく。