鈴木先生のタイプ

よくファッション雑誌のモデルなんかを見て「誰がいい? 誰がいい?」と好みのタイプを言い合って「ありえない!」と爆笑したり「だよな!」と握手したり、っていう光景が学生の間ではよく見られるけど、昔からあれが苦手だった。単純に恥ずかしかったのもあるし、雑誌に掲載されるくらいの美の持ち主なら誰でもいいというのもあった。そういう別の次元にいるモデルよりも身近な女の子の存在の方が、萌える、というか、緊張する。ってその場にいるわけだから緊張するのは当たり前なんだけど、美と触れ合うさいの緊張感(別の言葉でいえばリアリティーとでもいうのか)が自分にとって大切なわけであって、美に対する純粋な興味がなんだか希薄だった。まぁ、鈍感とも、貧しいともいえるかもしれない…。その代わり身近にいる女の子にはうるさいぞっ、と気張っていたんだけど、最近思うのはみんな別の次元の美に対しても身近な美に対しても同じように敏感なもんなんだな、ということで、つまり自分は偏っていたということ。
たとえば現代人はさまざまなメディアを通じて最上級の美を知っているわけだけど、結婚や恋愛の話になれば身近なそれほどでもない人とすましている(…なんて当たり前なことを書いているんだろう)。人はあからさまな美に魅せられると同時に、個人に宿る美を見いだす能力を備えている。だから冒頭にあげた高校生の好みのタイプを言い合う遊びも、本当はクラスメイトを対象にしたいところなんだろうけど、直接的過ぎるのでその熱い思いなどを代償としてモデルへ向けている、のかもしれない。
だけど、というか、やっぱり、というか、それでも2つの対極の美が存在する。つまり遠い存在であるきらびやかなモデルがいる一方で、身近な女の子ならではの地味な「隠れマドンナ」がいる。その「隠れマドンナ」については「鈴木先生」に痛いほど克明に描かれているので、そのまま引用する。元同僚の女性が鈴木先生に言い放つ言葉。

世の中の他の男どもは元気印の明るいカワイイ子だの ちょっとワルでいきがった子に夢中だけど オレは違う! 地味で暗くて誰も気づいていないだろうけど オレだけは彼女の良さに気づいてる! そんなふうにカンチガイした男がね…… 実はクサるほどたくさん……キモチ悪くコッソリと彼女をヒソカに想ってんのよ あなたもそんな中の一人に過ぎないワケ!

この言葉は本当に痛いし、たぶん好みのモデルを言い合う遊びに違和感を持つ男は、ほぼ間違いなくこういうタイプの子が気になっているはずなんだ、と思う。もしかしたら彼らは潜在的にその事実を知っているのかもしれなくて、だからこそ好みのタイプについて頑なに口を閉ざしているのかもしれない。彼ら、とか人ごとのように言ってるけど、ぼくも本当にそうだった。