「おぼろ豆腐」と「揚げパン」のコミュニケーション


ちょっと前のエントリーで紹介した保坂和志の「残響」を時間をかけて読み終えた。解説でも石川忠司が言及しているけれど、以下の箇所が、個人的にぼんやり思っているだけで腰を据えて考えたことがなかったことについて見事に文章化していたので、感銘を受ける。

あたしがいま渡辺さんのことを思い出していることを渡辺さんは絶対わからないけれど、みんな誰だって自分のことがたまには誰かから思い出されていることがあると思って生きているはずで(そうじゃなかったら生きていられないと早夜香は思った)、渡辺さんがそう考えるときの一人にあたしが入っていれば、あたしがいま渡辺さんを思い出していることがいまピッタリこの時間の渡辺さんにはわからないけれど、あたしが渡辺さんを思い出していることが本当にまるっきり全然渡辺さんに伝わっていないということではないと早夜香は思った。

この一節に感銘を受けたぼくはヨッペイのことを脈絡もなく思い出していた。
ヨッペイは小学校6年生のころに一時的にすごく仲良くなった色黒で長身のクラスメイトで、一方、ぼくは色白で短身だったので、彼とはよく「おぼろ豆腐(ぼくは白いから)」「揚げパン(かれは黒いから)」と呼びあう、というか罵りあって、捨て身の熱い友情を交わす間柄だった。せっかく仲良くなったけどすぐに卒業してしまって、別々の中学に通うことになり、ヨッペイとはめっきり会わなくなって、で、もう10年以上経ったけど、彼はぼくのことを思い出してくれてるんだろうか? なんてヨッペイを思い出したついでに気になっている。たぶん絶対にたまに思い出してくれているんだろうけど、そのリアリティーの強度はそんなに強くなかった。それは当然ながら実際に会って話したりするコミュニケーションに重きを置きすぎているから。だけど、やっぱり、ひとが生きている以上、きっとひとは過去に出会ったひとを脈絡なく思い出すわけで、時期は違えどお互いを思い出しあっているという、その微かだけれども確かなコミュニケーションが、いま、大切に思えてきた。