8月25日〜9月6日

前回、日記形式はそろそろやめると書きましたが、秋から冬にかけてまた忙しくなりそうなので、そしてなにより日記形式以外の書き方を忘れてしまったので、このまま行くことにしました。

■8月27日 ベンヤミン


石川忠司衆生の倫理』読了。心につねに大久保と西郷がいる作者が「近現代人はどうしてこんなにも倫理的に無能力なのか。そもそもわれわれ近現代人とは一体いかなる存在なのか」という問いを立て、近現代人は欲動的人間で「人間の生命ほど大切なものはない」という理念が骨の髄まで染みついてしまっているからと答えつつ、それじゃあどうすれば現代において生命以上に大切な倫理・道徳が立ち上がるのだろうか? ということを論考する刺激的な本なんだけど、個人的に引っかかったのはベンヤミンアウラの喪失・凋落を引用している「第三章近代の世知辛さについて」で、どちらかといえば本題の準備段階といえる箇所だった。それはたぶんぼくがベンヤミンを読んだことがないバカだったからというのと、芝居が終わった今でも熱が覚めやらないでなにかと物ごとを芝居と結びつけて考えたがるからというのと、後半はちょっと難しくてもう何度か読み直さないと頭に入ってこないから(つまりバカだから)という理由だと思う。ベンヤミンの「写真小史」にある、写真技術が開発されて間もない頃の写真についての記述を受けて作者はこう述べている。

初期の写真はまだいわゆる芸術的な「写真」になりきってはいない。つまり被写体は「写真になる」ということをどうもまともに理解し得ているとは言えず、したがってカメラに向かって自分の魅力をアピールするていの、あの自意識に満ちた—芸能人気取りの—あざとさとはまったく無縁である。その結果出来上がった写真には、被写体の良さも悪さも、意識的なものも全部ひっくるめた彼(彼女)の自然的な「全体」、すなわち「アウラ」と呼ばれる「<いま—ここ>的なもの」、あくまでも一回的な現象としての被写体を見事にかたちづくるがゆえ、かえってそれを見る人に彼(彼女)の過去や未来をも連想させずにはいかない「現在」そのもの=「全体」が現れているわけなのだ。

この箇所を読んで何を思うかといえば、演劇におけるアウラについて。写真におけるアウラが、カメラがどんなものであるかも知らないで、自分が被写体であることも知らないで自然体のままで撮られたときに宿るものだとしたら、演劇の場合は役者が「演技」と意識してしまった瞬間にアウラは消失してしまうんじゃないか、ということは、つまり演劇の誕生はそのままアウラの消失に繋がっているんじゃないか、ということ。だから世間では自意識に満ちたあざとさを「芝居がかった」と形容したりするわけで、古今東西の演出家はそのあざとさから遠ざかりアウラを復活させるためにさまざまな方法論を繰り広げてきた、ともいえるかもしれない。動きを極度に抑制したり、意識を分散させたり、役者を疲れさせたり、台詞と仕草の元となるイメージを生み出したり。以上は、まぁ、孫引きからの思いつきなのでどれだけアウラの本質に迫っているかはわからなくて、むしろ誤読のような気がしないでもないので、今回はここまでにして、とりあえずベンヤミンを買ってみようと思う。

■8月28日 マンスリーアートカフェvol.20

横浜にあるSTスポットでトークショーマンスリーアートカフェvol.20」。演出家の中野成樹さんとブック・ピック・オーケストラ代表の川上洋平さんによる対談は古本(漫画)から演劇までどれも濃い内容だったんだけど、やっぱり個人的に興味深かったのは中野さんの演劇論で、ひとことに「誤意訳」といっても時期によって興味の方向が変わるらしく、海外戯曲の翻訳らしさを遊ぶ方向だったり、翻訳らしさに現代日本の日常的な説得力を持たせる方向だったり、そして最近ではそれらの「ブレンド」に興味があるらしい。その「翻訳らしさ」といった場合、おそらく要素となるものは口語調になりきれていない文語調でもあるだろうし、さらに翻訳が古い場合にはその古めかしい文体も加わるんだと思う。この前の『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』を観てもそうだったんだけど、現代口語に誤意訳された芝居の中でたま顔を出す「翻訳らしさ」に中野さんのセンスの良さを感じるわけだけど、それは古本と現代の若者との新しい出会い方をプロデュースしたブック・ピック・オーケストラのセンスの良さに共通しているような気がした。中野さんは9月18日から同じSTスポットで『ちょっとした夢のはなし』を上演して、ブック・ピック・オーケストラは10月に急な坂スタジオ主催の『ラ・マレア 横浜』という市街劇で風変わりな本屋を作るそうです。帰り道に本屋に寄って金がないにもかかわらずちくま学芸文庫から出ている『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(1,500円)。

■9月2日 横浜トリエンナーレ2008

横浜でバイトをしているので、来週からはじまる横浜トリエンナーレ2008が気になっていて、だけどWebsiteを覗いてみてもどんな内容なのかが謎のベールに包まれていて、だからこそさらに気になっている。今回はチェルフィッチュ田中泯勅使川原三郎とかパフォーマンス系のアーティストも参加していて、個人的にはとても嬉しいんだけど、イベント情報を見る限り普通なら予約制が基本のはずのパフォーミングアーツにそのような記載が全然ない*1ので、もしかしたらトリエンナーレチケット1,800円でチェルフィッチュの『フリータイム』が観れるのかもしれないし、チケットは2日間有効なのでチェルフィッチュ勅使川原三郎のダンスを両方観ても1,800円なのかと思うと、安過ぎるし、当日大変なことになるんじゃないかと心配すらしている。そういう意味でもとっても待ち遠しい。あと参加アーティストで気になっているのは、最近文芸誌にも岸本佐知子訳で小説が掲載されていたミランダ・ジュライ

■9月6日 福満しげゆき

 
福満しげゆき僕の小規模な生活』『うちの妻ってどうでしょう?』を読了。すごい面白い。どこまでが本当なのかわからない自伝漫画。作中で妻が夫である漫画家のウェブサイトを制作したら仕事のメールがポツリポツリと届いて喜ぶ、というエピソードがあるんだけど、実際に作者のWebsiteを覗いてみるとその目的が「メールアドレスの公開」としかいいようがないくらいシンプルなものだったので、少なくともこれは現実のよう。話は変わるけど、今生きている現実がどれだけ豊かであるかを強調しているような漫画が大好きでそういうのばかり読んできたんだけど、最近はそれとは別の方向に向かっている漫画が気になっている。というのは単純に『リアルのゆくえ』を読んだから…。それにしても福蜜しげゆきの作品はタイトルからしてもそうだけど五反田団の前田さんを思い出さずにはいられない。

*1:チェルフィッチュは記載が載りました。「各回開演の2時間前より、赤レンガ倉庫1号館3階ホール受付にて、整理番号付き入場券をお配りいたします。その際、「横浜トリエンナーレ2008」チケット(当日有効のもの)をご提示ください。「横浜トリエンナーレ2008」チケット1枚につき、1名様分の入場券をお渡しいたします。開場は開演の15分前。入場券の整理番号順にご入場いただきます。上演時間は80分です。客席数に限りがございます(70席を予定)」9/13